費用対効果(コスパ)や時間効率(タイパ)がもてはやされるようになって久しい。だが私は最近、こうした効率主義と決別すべきだと強く思うようになった。仕事の効率化は必要だとしても、日常生活にまで効率化を持ち込めば、人生は確実に痩せていく。
おしゃれは無駄か
かつて私は、仕事と母の介護に追われ、余裕のない日々を過ごしていた。必然的に暮らしも効率化せざるをえなかった。
その頃はファストファッションや中古の服で済ませていた。それでも人からは「きちんとしている」と見られていた。服が好きで、ある程度の目利きができたからだ。表面的にはそれで十分に見え、都心まで出かけて服を選ぶ時間は無駄に思えた。服は好きでも、「おしゃれはもう卒業だ」と言い聞かせていた。
しかし、余裕を取り戻すと再び服にこだわるようになった。最初は「人間、暇になるとすぐ堕落する」と自嘲したが、今ではそれこそ効率主義に毒された考えだったと思う。
いまはオーダーメイドで服を仕立てることもある。生地を選び、採寸し、仕上がりまで二か月を待つ。完成するまで思い通りになるかどうか不安もある。効率やリスクを重視するなら、規制服を買った方がはるかに合理的だ。中古の服でも十分整うし、他人が違いに気づくこともほとんどない。
それでも、自分の嗜好と体に合わせて仕立てられた服を身にまとうと、幸福感がある。もうこの年齢で誰かに良く見られたいわけではない。ただ純粋に、自分の趣味として楽しんでいる。そこに効率は入り込む余地がない。
効率化が奪うもの
私は旅行が好きで、時間さえあればどこかへ出かける。だが田舎に住んでいると移動は不便で交通費もかさむ。効率だけを考えるなら、都市部に住んだ方が旅行は容易だろう。
それでも私は田舎の風景を愛している。都市部で暮らしていた頃より生活の質は高い。都市は旅行で訪れる分には楽しいが、暮らしたいとは思わない。
時間に追われていた頃、私はパソコン仕事の片手間にアニメやドラマを「ながら視聴」していた。筋は理解できるので、それで十分だと信じていたのだ。だが実際には、作品の奥行きなど味わえるはずがない。
英語音声・日本語字幕の作品を避けていたのも、同時並行で視聴できなかったからに過ぎない。今となっては愚かな選別だったと思う。
いまは視聴するときはそれだけに集中する。作品はその方が深く楽しめるし、制作者に対しても誠実だ。倍速再生に至っては、作品をただの消費物に貶める行為でしかない。
効率主義を広めたもの
このような貧しい効率主義を広めた要因の一つは、インターネットの普及である。大量のコンテンツがスマートフォンでいつでも視聴できるようになり、月額課金のサービスでは「できるだけ多く見なければ損だ」という心理が働く。
企業も「低価格で大量のコンテンツ」を売りにしているが、それはユーザーの幸福のためではない。デジタル配信は物理的な流通に比べ、より安く、速く、大量に、少人数で供給できる。資本主義の論理がそこに作用しているだけだ。
その結果、一つの作品を繰り返し味わう人は減り、映画館で鑑賞すること自体に価値を見いだす人も減った。クリエイターでさえ効率主義に合わせた作品を作るようになっている。これが果たして人々の豊かさにつながるのだろうか。
ファッションにも同じことが起きている。装飾性を削ぎ落としたシンプルな服が「おしゃれ」とされるが、それは縫製技術を必要とせず、大量生産に都合がいいからだ。
さらに、IT業界の巨人たちが同じ服を着続ける姿も、この価値観を広めた一因だろう。彼らのように「世界を動かす仕事」に人生を賭ける人間なら、服装の効率化は理にかなう。だが、凡人がそれを真似したところで、生活が痩せるだけである。
ていねいな暮らしを取り戻す
私は一人暮らしだが、食事のほとんどを自炊している。黒いプラスチック容器に詰められた弁当を割り箸でつつく行為に、どうしても貧しさを感じてしまうからだ。
母の介護で忙しかった時期、宅配惣菜を利用したことがあった。しかし、弁当と同じ理由で、心が荒んでいくのを覚えた。効率化の名のもとに、家畜のように与えられた食事を摂り続けることは耐え難い。だからこそ、手間をかけてでも自炊に戻した。
完全栄養食で済ませる人もいるが、私にとって食事は幸福そのものに直結する。削るわけにはいかない。
外出の際は、ワイシャツのボタンを留め、仕立てたジャケットを羽織り、靴べらを使って革靴を履く。近所の買い物であっても、Tシャツと短パンで済ませることはしない。
こうした小さな「ていねいさ」が、生活の質を底上げし、幸福感を育てる。効率主義は暮らしからそのていねいさを奪い、人生の密度を薄めていく。そこに主体的な幸福など生まれるはずがない。
効率主義に流されることなく、ていねいな暮らしを選び取らなければならない。それこそが、私たちが人生を取り戻す道なのだ。