SNSでは以前から、小泉進次郎氏の発言を揶揄する投稿が散見されたが、近年は一層厳しい批判が目立つようになった。
つい先日、高市早苗氏が自民党の新総裁に選ばれた。小泉氏は有力候補とされながら、その座を逃した。それを受けて、SNS上では「進次郎でなくてよかった」「なっていたら日本は終わっていた」といった声が並んだ。
私は政治に詳しいわけではないが、なぜ彼がこれほどまでに批判されるのか気になり、ChatGPTと対話を重ねながら考えてみた。
結論として、彼が以前にも増して批判されるようになった背景には、政治的な発言そのものよりも、社会全体の価値観がリベラルから保守へと転じたことがあるのではないかと感じている。
リベラルから保守へ——世界的な潮流の転換
十年ほど前まで、アメリカやイギリス、EU諸国ではリベラルが主流だった。多文化主義や人権重視が理想として掲げられ、保守は「時代遅れ」「排外的」と見なされる傾向にあった。
しかし、トランプ政権の誕生を境に、潮目は変わった。
移民が仕事を奪い、治安が悪化する。そんな庶民の不安に対して、リベラル勢力は理想論に終始し、現実の生活に寄り添わないとの批判が強まった。
「綺麗事ばかり」「上流階級の論理」「庶民を見ていない」——そうした反発が、欧米各国で保守回帰のうねりを起こした。欧米で起きた保守回帰の流れは、少し遅れて日本にも波及している。
訪日外国人や移民労働者が増える中で、地域トラブルがSNSを通じて拡散され、「移民の受け入れは厳しく制限すべきだ」という声が広がっている。
さらに物価上昇やエネルギー高、地政学的な緊張などが重なり、国民の意識は理想よりも現実的な安全と生活の防衛へと傾いている。
今年、新興の保守政党・参政党が支持を伸ばしたのも、その潮流の表れだろう。日本でも、確実にリベラルから保守への重心移動が進んでいる。
自民党内のリベラル——小泉進次郎の苦境
欧米でリベラルが勢いを持っていた時期、日本の自民党による長期政権は「時代遅れ」と見なされていた。
その中で、小泉氏は「自民党をリベラルに改革できる若手」として期待を集めた。実際、環境政策や持続可能性など、国際的な課題に積極的に取り組み、グローバル志向の政治家としての立ち位置を築こうとした。
しかし、取り組みが目に見える成果として評価されなかったこともあり、「言葉ばかり」「中身がない」と揶揄されるようになった。
さらに、やや天然な発言が切り取られ、SNSで過剰に拡散されたことで、「無能」というイメージが定着してしまった面もある。そこには一定の同情の余地もあるだろう。
本質的な問題は、彼が自民党内でリベラル寄りの立場を取ってきたこと自体が、時代の逆風にさらされている点にある。
庶民の関心はすでに、移民増加、物価上昇、安全保障といった現実的課題に移っている。しかし小泉氏には、そうした課題を真正面から語る政治家という印象が薄い。
このギャップこそが、彼が「重みを欠く」と見られる根本原因ではないだろうか。
仮に彼が将来、総裁や首相を目指すなら、この印象を払拭し、現実課題に向き合う姿勢を示す必要がある。しかし、これまで築いてきた“理想主義的イメージ”を覆すのは、並大抵のことではない。
山本太郎にも共通する構造的ジレンマ
同様の構造的ジレンマは、山本太郎氏にも見られる。
彼は、消費税の撤廃や教育費の無償化など、格差是正を掲げて庶民に寄り添う政策を訴えてきた。一方で、リベラルの立場から多様性、平和外交、脱原発を主張してきたが、その理念ゆえに、現実の生活課題との間に次第にズレが生じている。
れいわ新選組の支持層には、生活に不安を抱える人々が多いとされる。しかし、現実的課題に対して具体的な対応策を示さなければ、支持は揺らぎかねない。東日本大震災当時とは、社会の状況も国民意識も大きく変化している。
その受け皿として浮上しているのが、参政党である。
参政党は保守を掲げつつも、食の安全、ワクチンへの懐疑、反グローバリズムといったテーマでは、れいわ新選組と共通点がある。一方で、移民については明確に「制限すべき」と主張する点が大きく異なる。
党首の神谷宗幣氏は愛国的であるが、極端な排外主義ではない。そのバランス感覚が、一定の信頼を集めている。彼の「日本人としての誇りを取り戻そう」という言葉は、“自信を失っていた庶民層”に響いている。それは、明確に保守であるからこそ、説得力を持つ言葉である。
理想から現実へ——時代の転換点に立つ二人
小泉進次郎氏と山本太郎氏は、立場も語り口も対照的だ。だが、時代がリベラルから現実主義へ移る中で、政治的な立ち位置が危うくなりつつあるという点で共通している。
彼らの苦境は、単なる人気の浮き沈みではなく、政治そのものが「理念」から「生活のリアリズム」へと軸足を移しつつあることの象徴なのかもしれない。