先日、Facebookに10年以上ため込んだ投稿をすべて削除した。50件単位で削除できたとはいえ数が膨大で、作業にはかなりの時間を要した。
ひと月に100件以上も投稿していた時期があり、どうでもいいことを延々と書き続けていた過去の自分に呆れつつも、淡々と削除を進めた。
作業を終えたときには、くだらない過去と決別できたようで、晴れやかな気持ちになった。
アカウント自体はソーシャルログインに使うため残したが、もう投稿することはないだろう。
母親との生活と町の記憶
私がFacebookを始めたのは、高齢になった母親と同居するため、東京を離れて地方に戻った時期と重なる。
移り住んだ町は、もともと望んだ場所ではなく、当初は東京を離れることに気落ちしていた。それでも前向きに馴染もうと努め、やがて日常に溶け込んでいったが、今思えばどこか無理をしていたのかもしれない。町の人々に悪感情はないものの、本質的に接点のない相手が多く、地理的に離れれば会う必要も感じなくなった。
その町には10年ほど暮らしたが、母が亡くなったのを機に、自分が望んでいた町へ引っ越した。母親と過ごした時間を除けば、あの町での出来事は一時の気分しのぎに過ぎなかったと気づいたとき、記録を残す意味はなくなった。
そして、その町に関する投稿はすべて消した。母親の写真だけは、プライベートなストレージに保存している。
投稿を消す心理の背景
SNSの投稿やアカウントを一括で消す人は珍しくない。人とのつながりや思い出を大切にしていた人でさえ、ある日突然、投稿がすべて消えることがある。その多くは、引っ越しや転職、ライフステージの変化といった環境の転換と同時に起きている。
人間関係の多くは、環境が変われば維持する理由も薄れる。オフラインの変化に伴ってオンラインのネットワークも緩やかにほころび、やがて切れていく。変化を求め、その度に住む場所も変えていくなら、長く続く関係は多くはないだろう。
人が安定して保てる関係の数には上限があり、新しい環境に順応するには、古い関係を手放さなければならない。ハンガーラックに新しい服を掛けるために古い服を捨てるように、SNSの古い投稿も整理され、やがて消えていく。
投稿全削除は、「やらかした人の夜逃げ」のように見られがちだが、必ずしもそうではない。むしろ、過去に区切りをつけ、新しい環境でやり直そうとする前向きな行為である場合が多い。若い人なら恋人との別れをきっかけにすることもあるが、それもまた過去を振り切る方法のひとつだ。黒歴史化した投稿は、成長の過程で残された抜け殻として、静かに消えていく。
さようなら、過去のソーシャルネットワーク
私自身、かつては「キュレーター」という言葉に感化され、時事ネタや記事リンクを頻繁にシェアしていた。今思えば、それはテレビのワイドショーを見て、その場限りの感想を口にするのと大差なかった。
何かを見聞きして思うことがあるなら、まずはプライベートな記録に残し、価値があると判断した時点で整理して文章にすればよい。そのほうが、流行や文脈が変わっても読み返す意味が残る。
たわいない日常や浅いコメントをオンラインで永続化しても、時間が経てば意味は失われる。そう考えられるようになったのは、SNSが過去を可視化し続ける仕組みを持っていたからこそだ。学びをありがとう、SNS。そして、さようなら──過去のソーシャルネットワーク。