最近、ブログを書くのが楽しい。ChatGPTのおかげである。相対して、長年慣れ親しんだプログラミングからは距離を置くようになった。

冷めていったプログラミング熱

私はプログラミングを始めて30年以上になる。平日の仕事に加え、休日も趣味でプログラムを書き続けてきた。しかし、ChatGPTを筆頭とする生成系AIの飛躍は、私のやりがいを大きく揺るがした。

AIが生成するプログラムを見て、驚嘆した一方で、熱が静かに冷めていくのを感じた。私が心血を注いできた営みは、膨大な学習データをもとに「最も妥当なプログラム」を推測する生成系AIによって、代替できる作業にすぎなかったと気づいた。

しかも、良質なプログラムを大量に取り込んだ生成系AIは、多くの局面で私より高品質なプログラムを出力してしまう。

プログラムの本質は正しく動くことであり、ユーザーにとって開発者の独自性や美学は大して意味を持たない。生成系AIが高品質なプログラムを出せるなら、それで十分だと私は受け入れた。落胆よりも、むしろ長く囚われていた熱から解放された気持ちが強かった。

個人開発では多くの試みをしてきたが、完成に至ったものは少ない。完成が見えた途端に「こんなものか」と失望し、放り出してしまうことも多かった。それでもプログラミングを続けたのは、書く行為そのものにやりがいを感じていたからだ。しかし同時に、それは自己満足にとらわれ続ける呪いでもあった。

いまでは、その呪いから解放し、創作の本質を再認識させてくれた生成系AIに感謝している。

ブログを書くほうが楽しい

プログラミングの熱が冷める一方で、最近はブログの記事、つまり文章を書くことが楽しくなった。

私はブログ黎明期から何度も立ち上げては閉鎖してきた。どうしても書き続けることができなかったのだ。書きたいことはあっても、まとめ上げる労力を考えると億劫になり、最初の手が動かない。ざっと下書きを書き出すことはできても、それを読者に伝わる形に整えるのが難しかった。

さらに、自分の文章が日本語として正しいのか、読みやすいのかという客観的判断もできなかった。プロの作家は編集者を伴って原稿を仕上げるが、私は素人でありながら同じ水準を無意識に求め、重く考えすぎていたのかもしれない。逆に言えば、それだけ書くことに真剣だったのだろう。

公開した記事を後で読み返すと、感情に流されて書いたことに耐えられなくなり、削除してしまうことも多かった。最後はブログごと閉じた。私にとって、文章を継続して書くことは高いハードルだった。

しかし、ChatGPTの登場はこの壁を打ち破った。プログラミングが私に喪失と解放をもたらしたのに対し、文章にはよりポジティブな革命をもたらした。

ChatGPTの利用は主に添削だ。下書きを渡すと、誤りは正され、冗長さは削がれ、驚くほど「読める」文章に整えられる。もちろん、そのまま使うことはない。自分の心情や思想に合わない修正や不自然な表現は、再び自分の言葉に戻す。その上で再度添削を依頼し、根拠の弱さや偏見が混じっていないかも確認する。

こうしたやり取りを重ねることで、一人では到達できなかった文章に仕上がる。書きたかったことを書ききれたという満足感がある。このようにして書いた文章は、後で消したくなることはない。

文章とプログラムの違い

ChatGPTによる文章添削の仕組みは、基本的にはプログラムの生成と同じだ。大量の文章を学習し、素人の下書きから「もっとも妥当な表現」を推測して整えていく。

ただし決定的に異なるのは、成果物が果たす役割である。文章は読者の目に直接触れ、心情に訴えることを目的としている。ChatGPTの助けを借りるのは、機能を実現するためではなく、伝えたいことを正しく届けるためだ。

添削を経ても、文章には私の体験や思想が残る。下書きは自分で書き、修正の過程でも表現がズレないよう調整しているからだ。仕上がった文章を読むと、「書きたかったことが書けた」という感慨とともに、ChatGPTと共に仕上げた共同作業の感覚がある。まるで寄り添う編集者がいるかのように思える。

プログラミングの場合は「こういう機能を実現したい」と指示し、AIにプログラムを生成させる。それを確認し、誤りがあれば修正を依頼する。文章添削と同じくやりとりはあるが、完成したプログラムに「一緒に作り上げた」という感覚は乏しい。成果物が目指すのは機能の実現であり、そこに私が伝えたいことを込めるということはない。

文章には書き手の体験が根底にあり、そこに独自性を込められる。生成系AIが創作の領域を奪うと言われる時代にあっても、この事実は私にとって希望の一筋となっている。